グループBの時代【ラリー閑話】

ラリー

1973年に世界各地のラリー大会をまとめて一つの大きな世界選手権にしたWRC(世界ラリー選手権)ですが、1982年から1986年までのわずかな期間だけ行われた

「グループB」

という規定でのWRCは一際異彩を放ち、人々の熱狂と興奮を集めました。

グループBの概要

過激な車両開発

グループBは排気量でさらに細かく分類されていました。過給機付きは排気量に1.4をかけた値で分類されました。

クラス排気量
B91300cc未満
B101300~1600cc未満
B111600~2000cc未満
B122000cc~
(過給機付きは排気量×1.4した値)

でした。これ以外の規定は、

オイルショックによるワークスのWRC参戦の減少を恐れたFISAにより、連続する12か月間に200台以上の生産があった車両に参戦資格を与えるものでした。

これにより、200台生産すればWRCに出場することが出来るようになり、各メーカーは勝利のために異常なカスタマイズを施した車両を投入することになります。

この規定は最終的にワークスカーとしてWRCに参戦するエボリューションモデル20台をラリーカーとして認めるという文面によって、さらにイカレた激しい開発競争を招きます。

熾烈な開発競争によって、グループBは軽自動車並みの小さな車体を400馬力以上のパワーでかっ飛ばし、タイヤをほぼ空転させながら走るような危険な車両がしのぎを削る魔境となりました。

観客の熱狂

グループB以前のWRCでは、コース上まで観客が出てきていることも珍しくありませんでした。

対戦車両の妨害をするために道路上に石を置いたり、走行している車両に触れることがステータスとなるような状況でした。

安全な場所での観戦などは観客の頭にはなく、危険な場所でも大量の観客がいるような状態が横行していたのです。

頻発する大事故

当然そんな状態で事故が起こらないはずもなく、大事故、死亡事故が頻発します。しかし観客の熱狂的な支持などにより、FISAはグループB規定の見直しを行うことはしませんでした。

グループBの終焉

過激さを増していくグループ Bはもはや制御不能の状態でした。

そしてついに1986年のツール・ド・コルスでグループBの終焉を決定づける事故が起こってしまいます。

トップを走っていたヘエンリ・トイヴォネン/セルジオ・クレスト組がコースオフし崖から転落。

乗機のランチア・デルタ・S4は勝利のために燃えやすいマグネシウムホイール、座席下部の燃料タンクなど安全性を軽視していた設計であったこともあり、コースアウトした車両は爆発、炎上。残ったのはスペースフレームとサスペンションのみという凄惨なものでした。

トイヴォネンとクレストの二名も死亡しました。

この大事故を受けてFISAはグループB車両のホモロゲーションの新規受付を終了し、グループBの終了を宣言。1987年以降のWRCは下位カテゴリであったグループAで行われることとなります。

これによって、熱狂と狂気の時代であったグループBはわずか5年という短い期間で終了することとなります。

グループBを走った狂気の車両たち

プジョー205ターボ

アウディ・クワトロS1

ランチア・デルタ・S4

まとめ

グループBは確かに危険と異常性の中で行われた狂気の時代でした。

しかし、人々を熱狂させる熱量と、ワークスのパワーに賭ける執着は独特な魅力を発しています。その輝きに魅了された熱狂的な支持層が今なお多く存在しているのも確かです。

グループB時代のまるで麻薬のような暴力的な魅力は、抗いがたい魔力を放っています。

ラリーのエピソードなどをまとめた記事一覧

【ラリー閑話】グループAの時代
【ラリー閑話】ラジエータにビール!?とんでもない修理方法
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参考資料

Wikipedia「グループB」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97B

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